私を変えた「スペシィフィック」との出会い・・・
実は、私がスペシィフィックと出会ったのは、かなり古い話になります。 それまでも長年にわたり治療の現場に身を置きながら、私なりに誠心誠意、患者さんたちのために持てる力の限りを尽くしてはきたものの、それでも心のどこかで限界を感じる部分もあったのでしょう。
今こうして今日までの経緯をふりかえってみても、問題は果たしてその限界が治療家としての私個人の能力の限界なのか、それとも私が学んできた医術の限界なのかという区別さえつかずにいたようにも思えます。 そうして問題の本質を見極めるすべもないままに、治療家の一員としてやっては来たものの、当時の自分の力ではどうしても消化しきれない何か澱のようなものが、いつしか心の底に蓄積されていたのかもしれません。 そんな私の人生に、僥倖というべき大きな転機が訪れたのは、今からちょうど二十年ほど前のことでした。
「わからない=ナンセンス」という図式は論理的に成立しない。
私にとって、スペシィフィックとの出会いは、まさに青天の霹靂と呼ぶにふさわしいショッキングなものでした。「目から鱗が落ちる」とは、あのような心境をいうのだと、今でもその瞬間の感動を忘れられずにいるほどです。
当時の私が半ば無意識のうちに自覚しつつあった限界とは、単にそれまでの近代科学の延長として位置 づけられてきた二元論や唯物論的な生命観の限界そのものに他ならなかったのかもしれません。 とはいえ、いまだ「近代科学にあらずば、科学にあらず」といった風潮が支配的であることも事実です。
人間は欲望によって作動するだけの機械にすぎない、生きとし生けるものすべて死とともにその全存在は 消滅し、ただ無に帰すのみ、あとには何も残らない、といった虚無的な生命観や人間観にも通じかねない 近代科学の世界観に、本能的に身構えつつも、その強固な壁を突破できずにいる現状は、私自身今な お認めざるをえません。
しかしその一方で、私たち人間の存在を含め、世界を成り立たせている原理のすべてが既成の科学に よって合理的に説明しうるのかといえば、そうではないという事実もまた同じ現実として認めるべきだと思う 気持ちは日増しに募るばかりです。
「わからない」という現状と、「ナンセンス」という批判は、もともと位相を異にするものである以上、同列に 論じうるものでさえないことは、少し頭を冷やせば誰にでもわかることでもありました。すなわち 「わからない」=「ナンセンス」という図式は、そもそも論理的に成立しようがないのです。
「哲学」であると同時に「科学」であることの遠大さ。
もちろん、なかには「わからないことを、わからないままいつまでも考え続けることは生産的ではない」と 批判する人たちもいることでしょう。その指摘そのものに対しては、私も否定するものではありません。
しかし、あらためて科学史をひもとくまでもなく、未知の原理を実証するための手法には、つねに「仮説」 が介在してきたはずです。その仮説に対する検証こそが「科学」であり、その実証に向けて取り組み続ける あくなき姿勢こそ「科学的態度」と呼ぶべきものでした。
もしも、私たちの祖先が、それぞれの時代における「未知」に対して背を向け続けてきたとしたら、おそらく 私たちは今でも洞穴に住み、日がな一日森や野山を駆け回っては、野生の動物を追って暮らしていたこと でしょう。
またその原理が複雑で遠大であればあるほど、その検証には数限りない試行錯誤が要求されるものでした。当然のことながら、相応の時間もかかります。
今でこそ、世界中の工場で日に何百万となく製造されては、滞りなく市場に供給され続けている電球ですが、その発明者として知られるエジソンは、その原理を究明し実用品としての原型を築き上げるまでの間、長年にわたりおよそ1万回にも及ぶ実験を繰り返したと伝えられています。手がける分野こそ異なれ、同じ科学の 一翼を担う者として、そうした偉大な先哲たちの足跡を忘れるわけにはいきません。
「わからないこと」を、わからないまま「わからないこと」として留保しながらも、その解明に向け、あくなき 努力を続ける勇気もまた、立派な科学的態度といえるのではないでしょうか。
ビジョンの共有を通じ信頼でつながりあえる仲間が存在すればこそ。
私がB.J.パーマー(米国1982〜1961年)の哲学に、はじめて接した時におぼえた感銘もまた、そうした 未知の領域にあったといっても過言ではありません。その偉業こそ私にとっての天啓に等しいものとして、 使命感をおぼえることにもなりました。
しかし、そうしてスペシィフィックとの出会いを通じ、ようやく前途にほのかな光明をみいだせたという思いも つかのま、皮肉にもその光明が今度は逆に、周囲に理解を求めるべくもない孤独をもって私をさいなむ結果 にもなっていったのでした。
好運にも、眞命堂主宰・岩田不可止先生との邂逅を得たのもその頃のことでした。スペシィフィックの哲学 をひとりでも多くの方々に知っていただき、理解を得たいとの一念で全国行脚を敢行しているさなかでのこと です。
世間では、同じ「カイロプラクティック」という通称で知られるプラクティスの中にも、さまざまな考え方をもった 先生方や分派・流派が存在していること、またその差異には、理論や臨床上の知見に対する解釈のちがい が介在していること、さらにはその根底に横たわる哲学の有無や是非、世俗的な思惑などといった複雑な 問題が幾重にも絡み合いながら、本来プラクティスとしてあるべき秩序から逸脱しつつ錯綜していることなど、 岩田先生との語らいのなかで再確認した現状は、今から思えばかつての私が個人的に抱え込んでいた混乱 の要因そのものとして、いわば「もつれた糸」がほどけていくのにも似た感慨がありました。
そうした出会いが図らずも、あらためてB.J.パーマーの哲学、すなわちスペシィフィックの真価を普及させていこうとの決意を新たにさせる契機となったことはいうまでもありません。
B.J.パーマー哲学と地球環境問題の共通点
B.J.パーマーによって、スペシィフィックの原理の発見、及びいち早い科学的手法の導入などを経て、今日に 継承されるに至ったプラクティスが確立されてから、すでに90有余年。その功績だけでも偉業として称賛する に値することですが、それにもまして個人的に気にかかるのは、あたかも爾来一世紀以上もの歳月を経て、 近年世界的にその哲学を再評価する機運が高まってきている潮流に同期するかのように、18世紀後半から 19世紀前半にかけて飛躍的な生産性の向上をもたらせた産業革命以降、加速度的な工業化によって排出 してきた二酸化炭素が、地球環境の存続を左右するほどまでに放置されてきたことに対する反省が重なり はじめている現状は、何を意味しているのだろうかということです。それとも、そこには何の符牒も介在しない 単なる偶然の一致として、なりゆきに任せておけばいいのでしょうか。
自然を媒介に、その外側をとりまく宇宙をあまねく充たす普遍的叡智(ユニバーサル・インテリジェンス)を そのまま体現する存在として私たち生物(イネイト・インテリジェンス)を位置づけるB.J.パーマー哲学をもって 実践するプラクティスの一員としては、むしろそうした世界の大系から目を逸らし続けてきたことによる必然 として、いわば「ツケ」がまわりはじめてきているように思えてなりません。
生命から自然、そして宇宙へ。
私たち人間を万物の霊長として生態系の頂点としながらも、微生物や植物を含むすべての生物を生み出し、 今この瞬間にも育み続けている大自然の存在、さらにはこの地上にそうした自然そのものをも生み出した 宇宙という途方もないエネルギー空間を、科学をもって垂直統合しつつ、地上にあっては生きとし生けるもの すべてを水平統合した、その知性と感性の奇跡的な融合を通じた「第三の知見」ともいうべきメタ・レベルの 認識こそは、まさに科学や論理を内包しつつ、その閾をも超えた「A r t」の名にふさわしい偉業だと、今さら ながら感嘆せずにはいられません。
もちろん、B.J.パーマー自身がその79年に及ぶ生涯をかけて築き上げた広大な思想の大系を、まだ学び はじめてまもない私が、長年にわたりその教えを継承・実践されてきた諸先生方をさしおいて、ここにすべて 論じうるはずもないことは、十分承知のうえでのことです。
にもかかわらず、そんな私があえてこうして「B.J.P. News Letter」の紙面をお借りし、ペンをとらせていただ いたのは、私たちスペシィフィックを実践するプラクティスの間では古くから認識として共有されてきたものの、 あまりにも一般社会において知られる機会の少なかったB.J.パーマー哲学の素晴らしさを、ひとりでも多くの方々に知っていただきたかったからに他なりません。 |
その教えとの出会いがいかに新鮮で感動的なものであったかというご報告を契機としつつ、拙いながらもそのエッセンスについて、私なりに心を込めて書き綴ることで、私たちがもって生まれた生命の素晴らしさと、いまだ十分には見いだされないまま私たち一人ひとりのうちに今なお潜在し続けている人生そのものの可能性について、多少なりとも思索を深めるためのきっかけづくりのお手伝いができればと願うばかりです。 |
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そして2008年、スペシィフィックの原点を辿る旅へ。
岩田先生と共に発案し開催したスペシィフィック有志による親睦会では、思いもかけないほどの多くの仲間 を得ることができました。その時得た感動が私に力を与え、今では全国各地の先生方と交流を深める日々 のなか、B.J.パーマーの哲学について語らいあうたびごとに、スペシィフィックを広めるためのモチベーション も日増しに高まってくるようです。 |
そうした思いが高じてきたゆえのことでもあったのでしょう、私はいつしかスペシィフィックの原点であるB.J.パーマーの故郷を訪ねてみたいと願うようになっていました。
そして昨年末から今年の年頭にかけ、念願の渡米を果たしたのでした。次号、その体験で得たものを、見聞記としてお届けする予定です。 |
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